あじさい

花は野にあるままがいい

 庭の片隅に咲く小さな山あじさい。まわりの緑にまぎれて気づかないかもしれない。

6月の鎌倉は「あじさい」だ。「あじさい」めがけて観光客が押し寄せるようにやってくる。「あじさい」は、なにも鎌倉でなくともと思うのだが、鎌倉の「あじさい」がいいらしい。

 東京からの友人に大真面目でたずねてみた「なんで、鎌倉なんだろうか」。答えは、なんとなく「あじさい」というと鎌倉が似合うという、なんとも日本人的な答だが、梅雨の鎌倉に咲く「あじさい」というのが古都鎌倉のイメージにぴったりと符号するようだ。

なるほど、それはそうかもしれない。しっとりと小雨に濡れて咲く「あじさい」はまことに美しい。

 鎌倉には「あじさい」の名所と言われる寺が何箇所かあるのだが、「あじさい」の数より人の数の方が数段多くて戸惑ったことがある。それもずいぶんの昔のことだから、今は更に増えていることはあっても、減っていることはあるまい。「そうまでして」というのが正直なところだ。

 

 茶道では利休七則というのがあって、その中に「花は野にあるように」というのがある。茶席に花を生ける心構えなのだが、これは野にあるように花を生けるという意味を超えて、野に咲く命の美しさと尊さを生けよということと思っている。

私は、よほどの事がない限り庭の花にハサミを入れることはないのだが、今日は格別の客人を迎えるという日には、決心をしてハサミを入れることがる。そんな時は必ず「ありがとう」の一言を添えている。

「花は野にあるままが良い」