天の食卓に思う

 この季節になると晴れた日にはデッキで朝食をすることにしている。

緑に囲まれ、陽光につつまれながらの朝食は小さな理想郷だ。さすがに梅雨の間は一休みだが、天気さえよければソトメシは秋まで続く。デッキは洗濯物の干し場でもあるので、昼は洗濯物の横で食事をすることになるのだが、それでも外が良い。

 

 いつもそう思うのだが、同じものを食べても家の中の食卓と外では全くと言っていいぐらい違うのだ。何故だかわからない。天井も壁もない自然の中に身を置く開放感なのだろうか。

 

 人間という生き物は、そもそも自然の中に暮らすようにできているように思う。長生きになったとはいえせいぜい百年。争いは絶えることなく、世の中も作っては壊し、壊しては作る、すべて同じことの繰り返し、人間の思いつき、人間の身勝手、正に無常そのものような幻の世界に生きているようだ。

 一方で緑たちは、人間のように争うこともなく、欲ばりもなく、来年も咲いてやるからといって桜の木がベースアップを要求するわけでもない。

みんな、そのままの命をそのままに生きている。我々が精進研鑽をかさねてもなかなか到達できない「無」の世界に生きている。

 すべてを忘れて緑に囲まれ、天の食卓につくひととき、至福の時とはこのことだ。私にとっては、どんなに贅を尽くした宮殿よりもはるかに素晴らしい世界がそこにある。